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2015.01.14Special Interview 「寛永寺からみた上野の山と街?歴史を未来へ」③

[第3回:明治政府と上野精養軒]
●寛永寺長臈 浦井 正明さん
●聞き手 佐藤 輝光(松坂屋上野店)

 

明治期に華やかな社交場として栄華を誇った、上野精養軒。上野公園開設に伴い、各国公使を招くレセプション会場として、上野の地に招かれた精養軒の誕生秘話など、上野公園開園にまつわるさまざまな裏話について、寛永寺・浦井正明長_にお話を伺いました。

 

[寛永寺]寛永寺は、寛永2年(1625)に慈眼大師天海大僧正によって、徳川幕府の安泰と平安を祈願するために建立された徳川将軍家の祈願寺(後に菩提寺も兼ねる)です。天台宗の宗祖伝教大師最澄上人が開いた比叡山延暦寺に倣い、東の比叡山という意味で、山号は東叡山とされています。
※寛永寺の詳細については、こちら

 

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上野精養軒 概観


■招かれた、精養軒

 

佐藤:上野公園は、もともと寛永寺の樹木を活かしたものだったのですね。

 

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グラント将軍植樹碑(上野恩賜公園)

浦井:結局、西洋式ではなく、自然の公園というかたちで、明治9年にできるのですが、その時に、今の精養軒を呼んできたのです。なぜかというと、開園のレセプションに英国、ドイツ、フランス、ロシア、アメリカといった各国の公使を呼ぶのに、当時は寛永寺の建物しか残っていなかったから、和式で畳。それで困ってしまい、岩倉具視が当時の精養軒のオーナーと知り合いだったことから、岩倉と大久保が、明治9年の4月に上野に精養軒を呼ぶわけです。5月の開園式のひと月前ですよ。だから、私はよく2代前の社長に、その話をして、精養軒は岩倉と大久保が頭を下げてお願いして来てもらったんだから、今、都に土地を借りているからって、ペコペコする必要はないですよって(笑)。そういうわけで、明治16年に日比谷に鹿鳴館ができるまで、ほとんどの政府のイベントは上野精養軒で行われていたのです。第1回の内国勧業博覧会が開催されたのは、明治10年。明治14年が第2回。ここまでは博覧会のレセプションも上野精養軒で開かれました。明治12年にアメリカのグラント将軍(元大統領)が来た時だって、レセプション会場は上野精養軒ですよ。公使はレセプション会場で着替えて、行事の会場へ移動し、それが終わると戻ってくるというような段取りで行われていたのです。


■上野公園開園裏話

 

佐藤:精養軒さんが上野に来たのと、上野公園が開園したのは、ほぼ同時なのですね。

 

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語る、浦井長_

 

浦井:これは裏話ですが、上野公園は、明治9年の5月7日にオープンするはずが、9日になったんですよ。東京都の公園史でもすべて、5月9日と書いてあって、本当は2日前の7日だったということは、一言も出てきません。東京都の公園課の人も、そんなことは知らない。実は、知り合いの古本屋に、“面白いものが手に入ったから見ます?”っていわれて、その資料を持っているんです。それによると、7日は雨だった。前日から雨が降り続いたことで、8日に延ばすのですが、8日も雨。それで、9日が天気だったら開催するというお触れを、8日の夜中に回覧しているんです。
結果的に、9日に開催し、その時の様子として、明治天皇、皇后両陛下が馬車で広小路を走っている画も残っています。昔は、案内状を直接持っていって、それにサインしてもらうか、手紙を受け取るかして確認していたんですね。所有している資料は、案内状を保管したもので切手帖というのですが、名刺型に張り込んであります。天皇家、山階宮(やましなのみや)、各大臣などと共に、各公使のサインもあります。発信元は大久保利通になっています。“ご案内、承りました”と返事を書いて渡すか、手紙を一筆書いて渡すのですね。最後の午前2時くらいになって、ようやく海軍省と陸軍省に行っている。要するに海軍・陸軍がいちばん下なんです。もう、当日になっているわけですからね。フランス語やドイツ語で書かれているものをあって、たぶん出欠の返事だろうと思います。内務省がもともと持っていたものなのでしょうが、時々、こういうものが古本屋に出回るので、当時のことがいろいろとわかってなかなか面白いものです。

(つづく)

 

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