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2015.01.07Special Interview 「寛永寺からみた上野の山と街?歴史を未来へ」②

[第2回:大久保利通と上野]
●寛永寺長臈 浦井 正明さん
●聞き手 佐藤 輝光(松坂屋上野店)

 

上野に動物園や博物館が造られるに至った理由?そこには、近代化に向けて大久保利通が描いた大きな構想がありました。幕末?明治へと至る激動の時代に、近代化路線へと踏み出した大久保利通と上野の関わりについて、寛永寺の浦井正明長_に伺いました。

 

[寛永寺]寛永寺は、寛永2年(1625)に慈眼大師天海大僧正によって、徳川幕府の安泰と平安を祈願するために建立された徳川将軍家の祈願寺(後に菩提寺も兼ねる)です。天台宗の宗祖伝教大師最澄上人が開いた比叡山延暦寺に倣い、東の比叡山という意味で、山号は東叡山とされています。
※寛永寺の詳細については、こちら

 

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大久保利通像(鹿児島 高見橋)

 

■大久保利通が描いた、上野の構想

 

佐藤:上野の山に文化施設を造るというのは、当時の明治政府が仕掛けたことなのでしょうか?

 

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ボードワン博士像(上野恩賜公園)

 

浦井:政府そのものが仕掛けたとは、必ずしもいえないかもしれませんね。石黒忠悳(※1)とボードワン(※2)の話では、ここに今の東大病院を造ろうという話になっていたわけですから。結局、東大病院の建設予定地にする話が立ち消えとなり、その後、上野がこういう形になったのは、大久保利通の力ですよ。大久保利通が内務卿になり、彼の力で上野動物園、博物館ができるんですよ。明治11年に大久保は暗殺されてしまいますが、明治15年に動物園と博物館は設立される。明治の近代化というのは、大久保が死んでも、彼の引いた路線がずっとつながっていくわけです。幕末までは西郷隆盛が中心かもしれませんが、それ以降の明治政府は、大久保利通の構想です。大久保が死んだ後も、引き継がれていきますから、それは、すごいものだと思います。西郷というのは、なかなかの人物ですが、ただ政治の細かい方針や指導力という面では、大久保利通にはかなわない。
その意味では、二人いたことで、ちょうどバランスが取れていたのではないでしょうか。

 

佐藤:上野に動物園や博物館を建てようとしたのには、どういう理由があるでしょうか。

 

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正式名称「上野恩賜公園」

 

浦井:大久保利通が岩倉具視や伊藤博文とヨーロッパに2年間、使節団として行きましたが、その時に、水晶宮(The Crystal Palace)というところで、ヨーロッパの文化施設とはかくあるべきという見本を目の当たりにしてくるんです。水晶宮は、1851年にロンドンのハイドパークで開催された第1回万国博覧会の会場として建てられた建造物です。
一つの公園を中心に、動物園・博物館・植物園などを併設したもので、それがヨーロッパの文化施設の中心だということを、彼らは学んでくるわけです。それを上野に造ろうというのが、大久保のアイデアだった。明治6年に太政官布告として公園令が出され、すぐに取りかかろうとしますが、資金不足で造れない。ヨーロッパ式の公園や庭園というのは、植樹をして、シンメトリーに庭を造ります。上野にもそういうものを造ろうとするけれども、資金的に難しいということで、結局、寛永寺の建物を撤去し、残った樹木を利用して、そのまま自然の公園にするというかたちで、明治9年、ようやく上野公園が完成するわけです。

 

■維新は、革命か?

 

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西郷隆盛像(上野恩賜公園)

 

浦井:ちょっと話は逸れますが、幕末・維新を革命と主張する人がいますが、僕はそうじゃないと思っています。もし革命だとすれば、革命を起こした翌年に、政府の中心人物が2年間も日本を開けて、海外に視察に行くなんて、恐くて、とてもできないですよ。しかも、無血で、主だった政敵は、誰1人、殺されていない。徳川慶喜でさえ、死刑にはなっていません。
慶応4年2月の彰義隊の戦争の前には、“死一等を減ずる”。最後は絶対に生かしておかないと言っていたのに。そうして見ると、明治政府には一貫性がない。しかし言うなれば、それが明治政府の生き残り策なんですね。徳川慶喜や西郷隆盛を徹底的に叩いてしまったら、その一派に属する人間の反発を招いてしまう。明治7年に江藤新平が反乱を起こし、明治9年に前原一誠も不平士族を集めた萩の乱を起こす。
そして、明治10年には西郷隆盛が指揮した西南戦争が勃発して、結果的にこの3つの反乱を制することで、明治政府は不平士族を一掃するわけです。ただ、士族の不満というのは、爆発しないものの、まだあるわけで、再び不平士族が立つ可能性が出てくる。それを明治政府は防ぎたい。徳川慶喜を徹底的に叩かなかったのも、もし首をはねてしまったら、260年も続いた徳川幕府の家臣や譜代の大名などが黙っていないと、それが怖いわけですね。大正2年に徳川慶喜が死んだ時には、勲一等旭日大綬章を授与する。公爵ですよ。革命だったら、慶喜は当然、斬られているでしょうし、2年間も政府高官がヨーロッパに外遊なんか、できませんよ。だから、僕は明治維新というのは革命じゃないと主張しているんです。

 

※1石黒忠悳:明治時代の医師。軍医制度を確立した日本陸軍の軍医。
※2ボードワン(アントニウス・フランシスカス・ボードウィン):江戸幕府の招きで来日、オランダ医学を伝えたオランダの一等軍医。

(つづく)

 

 

 

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