2014.09.17Special Talk 第2回 上野の桜を守る人々

[第2回:上野の桜は、どこから来たのか?]
●上野桜守の会
・運営委員長/木村 雄二さん(しゆう株式会社)
・事務局長/佐藤 一也さん(有限会社みはし)
●聞き手
・佐藤 輝光(松坂屋上野店)

 

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江戸の昔から桜の名所として人々に親しまれてきた、上野の桜。Special Talk 2回目の今回は、上野の桜のルーツを巡る歴史的な話にフォーカス、上野桜守の会のお二人に上野の桜誕生にまつわる興味深いお話を伺いました。

 

■上野の桜のルーツ

 

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寛永寺五重塔

 

?会として、上野の桜の歴史についても調べたりされているのですか。

 

 

佐藤:我々も、いろいろ勉強していますが、普及活動として、シンポジウムや講習会を開催しています。2012年の全国都市緑化フェアの際に、「上野の桜 江戸から未来へ」というシンポジウムで、寛永寺の名物先生として有名な浦井正明さんに、「上野の桜の歴史」というテーマで、上野の桜は、奈良から本当に来たのかというお話をしていただきました。上野の桜は、寛永寺開山して間もなく桜の名所となったとされていますが、結論としては、それを証明する記録があったということなんですね。

 

■手紙が証明する、吉野山との関係

 

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吉野山の桜

 

木村:上野の桜の始まりは、江戸時代の初期ですね。徳川家康公がなくなった後に、二代目の将軍・徳川秀忠がこの地を天海僧正に寄進し寛永寺を建てるということになり、天海が吉野の山桜を植えました。そこから桜の名所としての上野の歴史が始まったということになっています。関東でも茨城県の桜川というところに山桜の名所があって、そこの地元の人や桜の研究者の人たちからすると、実際に,桜川から山桜を上野に持っていって植えているのに、なぜわざわざ吉野から持ってくる必要があるんだと。だから、吉野の山桜を植えたというのは作り話だという説があるんですね。そのことを浦井先生にお話したところ、いや、そうではないとおっしゃる。そもそも上野の寛永寺は、琵琶湖に見立てて不忍池があり、竹生島に見立てて弁天島、清水寺に見立てて清水観音堂があるというようにできていて、しかも、その中に祭られている本尊の観音様や弁財天は、清水寺や竹生島から持ってきた本物を江戸の人に見せている。だから吉野の山の桜の景色を江戸の庶民に見せるということなら、吉野から持ってこなければならないわけで、だからこそ、この地に吉野の山桜を植えたのだとおっしゃるんですね。その証拠として、天海僧正が奈良の吉野山にある金峰山寺に、「そろそろ桜を送るように」と書いた手紙が残っているそうです。ところが、こういう話は、ほとんど一般には知られていないんですね。だから、上野の桜の歴史的な経緯についても、さまざまな活動を通じて伝えていくことが、私たちの会の重要な役割と考えています。

 

いろいろお話を伺っていると、奥が深いですね。

 

木村:桜といっても、テーマはいろいろありますからね。歴史の話も面白いし、生物学的な話でも面白い。切り口はいっぱいあります。

 

(次回につづく)

 

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