2015.06.02SPECIAL INTERVIEW「五條天神社と上野」③

[第3回:二度の震災と五條天神社]
●五條天神社 宮司 始澤 澄江さん ●五條天神社 禰宜 瀬川 真澄さん ●聞き手 佐藤 輝光(松坂屋上野店)

 

江戸から明治、大正、昭和と、上野の地で御遷座を繰り返した、五條天神社。ふたつの大きな震災を経て、この地を守り続ける五條天神社について、宮司の始澤澄江さんと禰宜の瀬川真澄さんにお話を伺いました。

 

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忍坂から五條天神の大鳥居へ

 

■五條天神社の変遷

 

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摺鉢山古墳

 

始澤:五條天神社は、そもそもは摺鉢山の高い所にお社が祀られていましたが、江戸時代に山を降り、その後上野の町に鎮座しました。そして明治の時代には、鉄道敷設計画でアメ横の付近を線路が通るということで、社地の代替地をいただくことになりました。当時は先々先代の時代です。五條天神社としては、もし代替地をいただけるなら、お山に戻りたいということで交渉を重ねました。しかし、いろいろな事情で、最初に代替地として仮社殿を建てたのが、お山ではなく、山下一番地でした。

 

佐藤:今の公園の入り口、大寒桜や枝垂れ桜があるあたりですね。

 

始澤:はい、ちょうど上野公園との境の山下袴腰広場の交番があるあたりで、そこに仮社地をいただき、大正12年9月1日の午前1時に御霊を移しました。いわゆる遷座祭(せんざさい)ですね。

 

■関東大震災

 

瀬川:この日付、お気づきになりますか?

 

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山下袴腰 現公園前交番あたり

 

佐藤:関東大震災ですか。

 

瀬川:御霊は夜半過ぎ、午前1時に山下の町中の仮社殿に移したのですが、その後、地震が起きて、一帯は廃墟と化しました。

 

始澤:仮社殿に御遷座して、12時間も経たない午前11時58分に関東大震災が起きたのです。

 

瀬川:ちょうどお昼時で、火を使う時間帯だったので、火災が拡がったと聞きます。

 

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穴稲荷(忍岡稲荷)

 

始澤:上野の街全体に拡がった火が鎮火するまで4日位かかったそうです。社殿は、9月2日まで火がくすぶっていたということです。その時の宮司が私の曾祖父だったのですが、当時、忍岡稲荷の社掌もしていましたので、祖父と共に危険を顧みず、山下からお山にある忍岡稲荷に、五條天神社の御霊をお守りするためにお預けしたのです。上野公園から降りてきたところが忍岡で、古くからこのお山に忍岡稲荷がありました。石窟の上にあったことから穴稲荷ともいわれていました。このお稲荷さんは御創祀から、ほぼ今の場所にあり、現在の「花園稲荷神社」(※)です。そして隣接した場所を五條天神社が代替地として頂きました。

 

瀬川:当時のお稲荷さんは、今のような立派な社殿は建っていませんでした。今の社殿は昭和の初めに五條天神社が移ってきた時に整備されたものです。

 

始澤:忍坂の傾斜が本来の山筋ですが、そのなだらかな傾斜を整地し、今の場所にお社を建て、御霊をお祀りしました。昭和3年に社殿が造営されました。

 

■東日本大震災

 

佐藤:関東大震災は、上野にそのような影響ももたらしていたのですね。

 

始澤:そして、80年あまり経ち、4年前に東日本大震災が起きています。

 

瀬川:東日本大震災の時は、表参道大鳥居が被災しました。大正15年の日付が入っている鳥居です。基礎部分の周囲に亀裂が入り、石工さんの話では、亀裂が一周入っているということは、折れていて、支柱一本が2トンあるので自重で立っているけれども、もう一度、揺れたら倒れますよということで、鳥居の支柱を取り換えて基礎を強化し、忍坂に面する場所へ移したのです。鳥居をご覧になると、支柱と、鳥居の上の部分である「笠木」の色が違うのがわかります。

 

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左: 東日本大震災で亀裂の入った旧鳥居の支柱  右:新しい支柱になった、今の鳥居

(つづく)

 

※花園稲荷神社(五條天神社に隣接しています。)

 

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左:花園稲荷神社のお社  右:赤い鳥居が続く、人気のスポット

 

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いろいろな神使の狐

 

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