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[第2回:五條天神社の歩みと上野の町との関わり その2]
●五條天神社 宮司 始澤 澄江さん ●五條天神社 禰宜 瀬川 真澄さん ●聞き手 佐藤 輝光(松坂屋上野店)
上野が海と接していた時代にまで遡り、五條天神社が上野の山に祀られた起源、やがて時を経て、上野の町に下りるに至った経緯について、宮司の始澤澄江さんと禰宜の瀬川真澄さんにお話を伺いました。
※写真は、五條天神社大鳥居(左)と、粟穂の紋(右)
■大らかな日本の神様
上野公園山下袴腰広場
佐藤:上野公園の山下袴腰広場のあたりは、岬のようになっていたということですが、このあたりは海だったわけですね。
始澤:今は、その向こう側が上野駅になっていますが、そもそも昔は人が住むような場所ではなく、入り江の住みやすい場所に人が住み着いて村落ができたのがはじまりです。そうやって、だんだん土地が増えて村になり、やがて町が生まれます。昔は、そういう集団を氏といいましたが、それぞれの村落に氏神様があって、海辺なら、漁師が海の神様を祀る、山ならば、そこが尊い場所になるので、山の上に神様をお祀りするというように、上野の山も、いちばん高いところにお祀りして、神様をおろしたのが五條天神社の起源となっています。
瀬川:今でも地鎮祭のように現地でお祀いをする場合は、そちらに祭壇を設け、神籬(ひもろぎ)という神様を迎える依り代となる榊の木を立てて、そちらに神様を御呼びし、地鎮祭が終わると、神様にはお戻りいただきます。
始澤:それが日本の祀りの原点で、538年に仏教が伝来してくると、仏像やお堂、仏塔といった具体的なかたちあるものを建立するようになります。そういう中で、自分たちの神様をどのようにお祀りするのかということで、ご神体、社殿などが創設されていく、そういう流れになっていくのです。
五條天神社社殿
佐藤:仏教が伝来してきても、宗教的な争いにはならなかったんですね。
今神様を祀ること、について語る、宮司始澤さんと禰宜瀬川さん
始澤:それは日本が島国であったこと、国民がおおらかであったことが大きかったと思います。領土争いというのはありましたが、宗教争いは起こらなかった。隠れキリシタンが弾圧されたということはありますが、それも、その時代の長が制したかったからで、仏教と神道がぶつかる、神道とキリスト教がぶつかるというような争いはありませんでした。仏教が伝わってきたことは、“蕃(外)つ国(とつくに)の神”、つまり、よそから来た神様であって、尊いことには変わりないという大らかな捉え方で、穏やかに共存してきたのだと思います。
瀬川:自分の国に神様がいるのですから、よその国に神様がいても当たり前。お客様が来たので、それを迎える。決して排除するのではなく、迎え入れる。日本人の気質、気持ちの表れだと思います。
■上野の町へ
旧五條町瀬川屋敷跡
始澤:その後、代を重ね、徳川時代に入ると、江戸の町、お江戸八百八町を守るために、鬼門に神様や仏様を配するということになり、東叡山寛永寺が建立されます。家光公の時代ですが、上野の山を西の比叡山に対し、東叡山と呼ぶことになり、お山にあった神社はすべて里へ下りることになります。それは、その当時の御上のお達しで、お江戸八百八町を守るための施策でしたので、神社はすべて麓に下りて、上野の山に神社はなくなります。その時に、私どもも上野の町に下りて、三橋町の隣、今のヨドバシカメラのある辺りですが、あの一帯に五條町が栄えることになります。なぜかというと、代々、瀬川家が五條天神社のお社を守る社掌(しゃしょう)、今は宮司といいますが、を仰せつかっていたことから、瀬川屋敷の中にお御霊をすべて申し受け、五條天神社の社主として、敷地内にお社を造ったからです。
瀬川:瀬川家の敷地内に、神様をお預かりしたわけですね。
(つづく)