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[第1回:五條天神社の歩みと上野の町との関わり?その1]
●五條天神社 宮司 始澤 澄江さん ●五條天神社 禰宜 瀬川 真澄さん ●聞き手 佐藤 輝光(松坂屋上野店)
創建から1900年を超える東_屈指の古社として、永きにわたって上野の町を見守っている、五條天神社。上野の地に根ざし、上野と共に歩んできた五條天神社の足跡と町との関わりなどについて、宮司の始澤澄江さんと禰宜の瀬川真澄さんにお話を伺いました。
大御輿と(右から 宮司始澤さん、佐藤編集長、禰宜瀬川さん)
■五條天神社の歩み
佐藤:五條天神社の歴史的なお話からお聞かせいただけますか?
五條天神社正面
始澤:書物が残っているわけではなく、代々、伝えられてきたことですが、西暦でいいますと110年頃、第12代景行天皇の御代に、日本武尊(やまとたけるのみこと)が陸奥まで東夷征伐に出た際、上野の忍ヶ岡をお通りになる時に、薬祖神二柱(大己貴命、少彦名命)が御一行の難儀を救うという奇瑞を現わされたため、このことに感謝され、この地にお祀りになった、というところから始まっています。そもそも神社のお祀りの形態というのは、天照大神(あまてらすおおみかみ)は太陽、月読命(つくよみのみこと)は月というように、自然信仰から始まったものです。今は社殿でお祀りしますが、もともとは、大木や山など、自然の中にあるものを、神様を御呼びする依り代として祭祀をしていたのです。
■町名に込められた、町の来歴
佐藤:なぜ上野の山が、そういう場所になったのでしょうか?
始澤:私は台東区黒門小学校に通いましたが、当時、先生から上野の町の歴史を学び、地名の由来などもいろいろ教わりました。それをもとにお話しすると、このあたりは上野台地で、今、山下の交番がある一帯を“袴腰”といい、岬のように飛び出た突端部分だったそうです。
台東区立黒門小学校
山下袴腰(現公園前交番あたり)
不忍池
不忍池は神田川の支流で、海の名残と聞いています。堯恵法師(※)の「北国紀行」には、“波打ち際を歩くと、お社がある”という記述もあります。
旧五條町天神社跡(現ヨドバシカメラ脇)
“根津”という地名も、“津”というのは港のことで、山の根っこの方に港があったから“根津”だそうです。“鴬谷”という地名は、谷があって、そこで鶯がよく鳴いていたからだということも習いました。上野は、高台(上)にある土地(野)。台東区というのは、もとは下谷区と浅草区が合併したもので、上野台地の東に栄えることから“台東区”になったというように、地名というのは、その場所の成り立ちを表した大切なものだと教わりました。上野の山から下りると不忍池で、そのほとりは池之端と付く、池之端仲町や池之端茅町でした。東叡山寛永寺の時代には黒門があったので元黒門町、五條天神社があったところは、五條町でした。その隣には橋が3つあり、身分によって渡る橋が違ったという話も聞きました。そのあたりを三橋町といいました。その先は上野町で、大きな門があったことから北大門町、南大門町。さらに通りの東側を東黒門町、西側を西黒門町と呼んでいました。元黒門町と西黒門町の間には、数寄屋町という、茶屋が並んでいる町がありました。このような町の名は、私の子どもの頃まで残っていました。
みはし(旧三橋町あたり)
町の名前が上野の歴史に根付いていたので意味もわかりやすく、覚えやすかったのですが、1965年前後に町名変更があり、上野一丁目、二丁目というように背番号制のようなかたちになってしまいました。運営上は便利なのかもしれませんが、歴史に根付いた町名がなくなってしまったことは、町にとって一つの転換点になったように思います。 余談ですが、この時の町名変更については、問題提起をした自治体もあったらしく、日本橋や新宿のように、今日まで昔の地名が残っている地域もありますね。
(つづく)
※尭恵法師(ぎょうえほうし、1430年 - 没年不詳)は、室町時代中期の天台宗の学僧・歌人。