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上野の魅力をモノづくりの側面から知るべく、ファッションディレクターとして活躍する黒島美紀子さんと一緒に、台東区のモノづくりに深く精通する3名の方にお話を伺いに行きました。
今回は、上野を離れて、浅草にある「浅草ものづくり工房」のインキュベーション・マネジャーの城(たち)一生さんにお話を伺いに行ってきました。
<黒島さん>こんにちは、よろしくお願いいたします。
<城さん>こんにちは、暑い中遠くまでお越しいただき、ありがとうございます。浅草駅からもかなり歩く場所だから大変だったでしょう? でも、靴やバッグなどの皮革製品づくりには便利な場所なのです。自転車さえあれば、革屋さん、職人の工場、副資材屋、みんな近いですから。
<黒島さん>確かに遠かったです(笑)。でも広くて川も近くて風景もいいし、素敵な場所ですね。こちらでどんなお仕事をされていますか?
<城さん>ここは小学校の廃校を改築して、台東区が産業研修センターをつくりましたが、更にスペースを有効活用しようと、その一部を浅草ものづくり工房にしました。こちらでは、現在、地場産業の支援を兼ねた若手育成に取組んでいます。
しかし、上野についての取材なのに、浅草までにお越しいただけるとは?でも間違ってないと思います。昔からとても近い関係のエリア同士ですから。
浅草は、皆さんご存知のように皮革産業が大変盛んなエリアです。日本が明治を迎えた直後(明治3年)から、ここは軍靴をつくる産地でした。もともとは築地に海外の職人さんがいたのですが、その技術がだんだん隅田川をのぼり、浅草に古くから根付いていた皮革技術者に受け継がれたようです。つまり、海外からの先進技術と日本の職人技のハイブリッド、だから浅草の革靴っていうのは品質が高いのです。それは昔も今も変わりません。その頃、浅草メイドの品質の高い靴は、大半が“銀座”や“日本橋”で売られていました。
<黒島さん>やっぱり浅草は革物のイメージがありますが、ターゲットは銀座と日本橋だったのですね。
<城さん>一般にも“革靴”が広まったのはやっぱり第二次世界大戦後です。その頃から上野には浅草メイドの靴が大量に流れるようになりました。
昔は、上野松坂屋で“浅草の靴バーゲン”という催しが定期開催されていました。今、復活すれば、おなじみさんは懐かしく感じると思いますよ。まくら言葉の“浅草の”は浅草メイドがブランドだったという証。今も我々はその気持ちは忘れていません。
<黒島さん>やっと上野と浅草の関係が見えてきました(笑)。ところで、城さんにとっての上野にはなにか特別に思い入れがありますか?
<城さん>実は日本橋生まれなので、上野は高校生の頃から利用していました。やっぱりアメ横ですね。
<黒島さん>アメ横!戦後にアメ横から新しいものが色々と入ってきたと聞いています。
<城さん>戦後にアメ横にはアメリカからの生活品がいっぱい流れてきましたが、その中にはファッションもありました。革靴の後に日本へ入ってきたスニーカーはアメ横が殿堂だと思います。
今思えば、ストリートやカジュアルの発祥の地。その後、日本でもファッションというものが徐々に確立しますが、デザイナーズの流れとは一線を画し、アメリカのカジュアルを徹底的に追いかけていたセレクトショップは、アメ横が生みの親ではないかと、私は思っています。
<黒島さん>そうか。今、当たり前のように原宿や渋谷を本拠地にしているセレクトのルーツも上野にあるのですね。
<城さん>そうです。僕も高校生の時にアメ横で靴を買いました。アメリカ製で先がとんがった流行の靴でした。
上野の奥のほうは個人経営の焼肉屋さんなど、飲食店のカオスですよね。どの店も個性がある。それに比べると、“メシを食う”って感じは、渋谷とか原宿とか東京の西側では味わえないと今でも思っています。上野には、そんな魅力がたくさんあります。
<黒島さん>上野が持つ、こう、混沌としたすべてが近い生活感、これが今の若い世代に“生きている”っていう実感を与えてくれるのだと思います。安価に生活できることもあるけれど、クリエイターの巣窟みたいなものが出来て、お互い助け合っている。それがまた、懐かしいけれど新しいと思います。
<城さん>今は“モノづくり”“クラフト”という言葉をキーワードに、若者たちが集ってコミュニティをつくり始めています。肩肘をはらずに、大きな流れとなり育っていくとうれしいです。うちの卒業生も上野でチャレンジしている者もいるし、浅草と上野がタッグ組んでやっていければよいと思います。
<黒島さん>もちろんです、ぜひこれからも街のためにご活躍ください。
「日本橋で生まれ、船橋に住む。同じ橋でも今は端っこ。全然違うよねー」そんな洒落たフレーズで自己紹介をされた城一生さん。
浅草ものづくり工房のインキュベーション・マネジャーとして、高い志を持ちながら、でも右も左もわからない若手を見守り指導されています。
そしてまた、明治以降から脈々とつながっている下町ものづくり文化の伝道師でもありました。
取材にご協力いただき、本当にありがとうございました。