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[第2回:行幸道路としての上野中央通り]
●上野中央通り商店会 会長 中村 明彦さん ●聞き手 佐藤 輝光(松坂屋上野店)
古くは江戸の頃、寛永寺の門前町として栄え、さらに将軍や天皇家が通る行幸道路として役割を果たしてきた、上野中央通り。その由緒正しき通りのありようについて、上野中央通り商店会会長の中村明彦さんに伺いました。
昭和26年の中央道り(上野中央道り商店街HPより掲載)
?■由緒正しき、中央通り
佐藤:上野中央通り商店会の範囲というのは、どこからどこまでになるのですか?
中村:北は昭和通りと上野中央通りが交わる交差点、そこから松坂屋さんの南館までの片道約450mの直線の両側と不忍通りの鰻の伊豆栄さんのところまでが上野中央通り商店会です。江戸まで遡れば、このあたりは寛永寺の門前町です。うちはその頃からで、今の丸井さんのところに先祖代々住んでいました。もとは侍ですが、明治の頃に門前町ということで「井筒屋」という旅館を始めました。上野駅ができた時にも、たくさん旅館ができました。おもちゃのヤマシロヤさんも、昔は旅館。その後は、修学旅行の学生が大勢泊まりましたね。第二次大戦の時の空襲で家が焼けてしまったので、過去帳で遡れるのは、わかっている範囲で、私で6代目なんです。「下谷絵図」という古書があって、そこには倉太郎という私の祖父が東京の市議会議員をやっていたという記録も残っています。1903(明治36)年ですね。でも、このコピーは手元にありますが、原本がないんですよ。それともう一つ、人文社の「江戸切絵図」という本には、1862年当時のうちが載っています。
江戸切絵図部分
佐藤:古い写真を見ると、昔、中央通りには線路があったのですね。
中村:路面電車が走っていました。当時の上野中央通りは、“行幸通り”で、将軍様や天皇陛下が寛永寺に来る時に利用する道路だったんですね。皇居を出て外堀通りを通って、昌平橋通りに入って、黒門町のところから広小路を直進して、三橋の真ん中を通って行かれたということです。ですから、今も袴腰は行幸道路でなんです。そういう歴史があって、由緒正しき場所というのは、他になかなかありません。
■新しい人を受け入れる寛容さ
佐藤:東京メトロの村尾公一さんにお話を伺った時に、「上野の街は意外と新しい街なんですよ」といわれて、それは戦争の時に空襲で焼けたからで、そこから外部の人を気持ちよく受け入れて成長してきたので、いろいろな文化が混ざっていて面白い街になったという話をされていました。私はもっと古い街かと思っていましたが。
中村:商店会も、古くからの方は少なくなっているんではないですかね。戦前からのお店は、うちや「永藤パン店」の永藤さん、「黒船亭」の須賀さん、文楽人形焼の亀井堂さん、松坂屋さん、くらいではないですかね。伊豆栄さんは他から移ってきましたからね。その他はみんな戦後だと思います。甘味処のみはしさんも、時計のタツミさんも戦後ですしね。村尾さんのお話は正しいと思います。上野は、古くからの方もいらっしゃっても、新しい人を平気で受け入れる。そこは浅草と違うところかもしれませんね。浅草は結構、ガードが固い。上野の場合は、新しく入ってきたら、どうぞどうぞ一緒にやりましょう、と。ウイングが広いというか、懐が深いというか、そういう街の特質を持っていますね。他の商店会に入っていなくても、上野は別格だから入りなさいと、どんどん新しい人を入れてしまう。京成電鉄さんも商店会に入っていますし、JRの駅もそうです。他の駅で商店会に入っているというのは、あまり聞いたことがありません。そういう多様性が上野の面白さでもありますね。
(つづく)
[第1回:上野中央通り商店会の歩み]
[第3回:上野の街づくり]
[第4回:商店会活動と上野の想い出]
[第5回:上野をつなぐ、新しい試み]