2015.11.04Special Interview「東京メトロと上野」

[第1回:地下鉄誕生秘話?その1]
●東京地下鉄株式会社 常務取締役 村尾 公一さん ●聞き手 佐藤 輝光(松坂屋上野店)

 

東京の街と街を結ぶネットワークの要として発展してきた、東京メトロ。浅草?上野間で東洋初の地下鉄が誕生して以来、上野の街と縁の深い東京メトロの歩みについて、東京地下鉄株式会社常務取締役の村尾公一さんにお話を伺いました。

 

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■東洋初の地下鉄、誕生

 

佐藤:御社は上野に本社を置かれていますが、もともと地下鉄は浅草?上野間でスタートしています。まず、その経緯についてお聞かせいただけますか。 

 

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※旧本社ヒ?ルと上野の街並み

 

村尾:銀座線が東洋初の地下鉄ということで、88年前の1927年(昭和2年)に浅草?上野間2.2kmで開業しました。そういうこともあって上野と縁が深く、本社をここに置いています。なぜ浅草と上野だったのかについては、おそらく当時の浅草は、江戸の昔から、みんなが楽しむ場所として賑わっていたからでしょう。浅草寺があって、隅田川が流れていて、桜の花見の場所としても有名でした。一方、上野は鉄道の駅として東北へ向かう出発点だったので、この2カ所を結ぶことに意味があったのだと思います。

 

1923年(大正12年)に関東大震災があって、このあたりの街並みは、ほとんど震災復興区画整理事業の対象地区でした。近代都市計画に基づいて、碁盤の目のように街路がきちんと配置されていたわけです。

 

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※建設中の銀座線

 

通りにも地下鉄が入る余地がすでにありました。当時は路面電車が走っていたので、工事は路面電車の営業を妨げないよう終車後に実施し、掘り出した土砂も隅田川の水運を利用して土砂運搬船で運ぶなど路面交通に影響しないような配慮がなされていたようです。

 

トンネル側面の土を留めるための土留めの杭を打ち込むのも、電話線や電灯線などに支障がないよう、小型のコンパクトな重機を製造するなど、いろいろ苦労したみたいですね。浅草や稲荷町の駅を見ていただくとわかると思いますが、駅構内の柱の間隔が浅草は詰まっていますが、稲荷町の駅から向こうは間隔が徐々に広がっています。地盤はさほど変わらないと思いますが、東洋初の地下鉄ということで、かなり安全面に配慮していたのだと思います。工事を進める中で徐々に柱の間隔を離しても大丈夫ということになって広げていったのでしょう。


■最先端の乗り物として

 

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※建設中の銀座線 (上野車両基地付近) 

 

佐藤:いろいろ苦労や工夫があったのが伝わってきますね。

 

村尾:当時は、大規模な都市土木の工事については黎明期でしたから、苦労は多かったと思います。膨らむ建設費を節約するために、トンネルの断面を極力小さくして掘削する土の量を減らしたり、必要となる資材を削減したり、いろいろ努力があったようです。その結果、集電装置も、現在のようなパンタグラフ式ではなく、第三軌条という列車の側面にあるレールから電気を取り込む方式が採用されました。そうした努力の末に開業した銀座線は、最先端の技術が導入され、駅員の制服も斬新なデザインだったことから注目され、開業時は午前6時の始発から大変な数のお客様が集まって、午前中だけで2万人の利用客が殺到したと新聞記事の記録が残っています。

 

開業時の車両は1000形ですが、一両編成での運行ができるよう両方向に運転台が設置されていました。車両の色はベルリンの地下鉄を模した黄色で、車内の化粧板は木目塗装を施すなど、当時としては新機軸を打ち出したものだったようです。改札も、日本初の自動改札機ですよ。

 

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※ターンスタイル式自動改札 (開業時)

 

佐藤:え、自動だったんですか?

 

村尾:プラットフォームに入場する時は、10銭白銅貨を改札装置のスリットに投げ入れると施錠が外れ、十文字の回転式の翼をお客様が体で押して通過するターンスタイルの自動改札機で、日本では初めて導入されたものでした。 (つづく)

 

※写真は全て、東京地下鉄株式会社よりご提供いただきました。無断転載を禁止いたします。

 

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