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[第1回:寛永寺と上野]
●寛永寺長臈 浦井 正明さん
●聞き手 佐藤 輝光(松坂屋上野店)
上野が文化施設の集積地となる明治以前から、この地と共に歩み、その変遷を静かに見守ってきた古刹・寛永寺?。長年、上野の歴史研究に携わっていらっしゃる寛永寺の浦井正明長_に、上野の生い立ち・文化などについて、知られざる貴重なお話を伺いました。
[寛永寺]寛永寺は、寛永2年(1625)に慈眼大師天海大僧正によって、徳川幕府の安泰と平安を祈願するために建立された徳川将軍家の祈願寺(後に菩提寺も兼ねる)です。天台宗の宗祖伝教大師最澄上人が開いた比叡山延暦寺に倣い、東の比叡山という意味で、山号は東叡山とされています。
※寛永寺の詳細については、こちら
寛永寺根本中堂
■聖と俗の顔を併せ持つ、上野
佐藤:本日は、寛永寺との関わりという視点から、上野ができた経緯や上野の文化などについて、いろいろなお話が伺えればと思っています。よろしくお願いします。
浦井長_と佐藤編集長
浦井:昔の上野といっても、明治までは、上野の山とその周辺は、すべて寛永寺でしたからね。今とはまったく違うんです。変わらないのは、広小路が門前町として繁華街になっていたこと。寛永寺は、幕末の戊辰戦争の時に彰義隊に味方したということで、朝敵扱いとなり、火を付けられて焼かれた。結局、全山没収され、明治政府のものになったんです。だから、簡単に言えば、そういう寺だった場所に、明治以降、稠密な文化施設を次々と造っていった。寺として江戸の中心地だったところが、東京になってからは、日本全体の文化の中心地に変わっていくわけですね。
天海大僧正
江戸の頃は、寛永寺と浅草寺は、寺という聖地に対して俗地が隣接する形になっていました。浅草で言えば、吉原、上野で言うと、湯島の陰間茶屋があり、隅田川の辺りには夜鷹もいたわけです。それと、寛永寺は、小さいながらも台地にあって山の手、浅草寺は川。そういう山や川の隣地に寺があって、聖地と俗地が混在しながら、その門前に盛り場が起こってくるんです。門前町というのはどこにでもありますが、いわゆる門前町ではなくて、盛り場になっているところは、江戸でも数が少ない。浅草寺の場合は、後には浅草六区というかたちで残り、上野の場合は、湯島、広小路があった。松坂屋さんが江戸からずっとあるように、形は変わっても、盛り場であることはずっと変わりません。そういう特殊な場所が、上野と浅草なんですね。江戸から明治、大正、昭和、平成まで、少なくとも400年くらい、そういう形態を伝えてきた。そこが特徴的なのです。江戸の最大の盛り場というのは、両国橋の東詰と西詰だったと思いますが、明治以降、なくなってしまった。今、国技館や江戸東京博物館があるから、多少、人出はありますが、盛り場とはいえない。でも、上野と浅草は、江戸から形を変えても残ってきている。それがいちばんの特色になっているのです。
■点を線に、そして面へ
佐藤:そういう歴史的な面というのは、大事にしていかないといけないですね。
寛永寺の賑わい
浦井:歴史や背景を認識した上で、今の形態をどう維持していくのか、それは考えていく必要がありますね。そもそも上野も浅草も、いきなりこういうかたちになったわけじゃない。観光連盟の人たちにもよくいうのですが、街を発展させていくには、新しい拠点を一つずつ創って、それを線でつなぎ、さらに面に拡げていけばいいんです。今の人たちが点を創り、次の人たちがそれを線につないで、最後に面に拡げる。そうすることで、50年後100年後の将来、台東区全域が一つにつながった面の上に乗るような格好になる。それを自分たちが生きている間に見ようっていうのは無理ですけどね(笑)。
寛永寺縁起
上野が今に残ってきた理由は、そういう要件がうまくつながっていったからですよ。浅草だって、浅草寺だけだったら、門前町はどうなったかと思うけど、明治以降、浅草六区ができた。映画や芝居などの興業街ができたことが浅草にとっては大きかったと思います。時代の変遷で、条件は変わってきていますが、そういう人を集める場所が上野や浅草に残っていて、それがつながっていったということですね。
(つづく)