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[第3回/上野の旅館業の変遷?その2]
●上野ホテル旅館組合 組合長/渡辺 定利さん ●聞き手/山田 諒典(松坂屋上野店)
戦災によって大きな傷を負った上野の街と旅館は、戦後、いち早く復興を遂げ、大きな飛躍を遂げます。上野の旅館の歴史について、上野ホテル旅館組合の組合長・渡辺定利さんに伺いました。
■戦災から立ち直った、上野の旅館
※数字で見る上野旅館組合
山田:戦争中の空襲で上野の旅館はほとんど焼失してしまったそうですが、その後、どうなったのでしょうか。
渡辺:戦後の復興は、いち早く始まったようです。前出の霜鳥貞治さんの記事によると、戦地から復員した人、満州などからの引揚げ者、加えて物価統制による物資不足で闇市が栄えていたことから、その買出し客などで、焼け跡の上野はごった返していたそうです。戦時中の空襲で大きな旅館はほとんど姿を消してしまったため、中小規模の宿が主流となり、軒数も140軒を数え、どこも客が溢れかえり、相当な賑わいだったようですね。組合に残るデータによりますと、昭和20年から26年の組合員旅館の開業軒数の累計は、135軒となっています。(※)
1950(昭和25)年には国鉄推薦旅館連盟[1957(昭和32)年に日本観光旅館連盟に改組、2012年に国際観光旅館連盟と統合、日本旅行協会となる]が発足し、上野駅周辺の旅館施設が整備されていきますが、この頃は、東北地方から来る修学旅行の学生が上野の旅館を利用するようになったそうです。その後、昭和30年代には、修学旅行生は、収容人数の関係で本郷の旅館に移り、上野は現在のようなビジネスや観光客対象の宿泊がメインとなっていきます。
■五輪を機に進んだ、ビジネスホテル化
渡辺:上野の旅館の様相が変化したのは、1964(昭和39)年に開催された東京オリンピック。五輪を契機に多くの旅館で改築が進みました。思い出しましたが、うち(ホテルニューウエノ)もオリンピックに間に合うように表側をコンクリートビルにし、ロシアからの記者を受け入れた、と聞いています。さらに昭和50年代前半になると高層化によって、これまで和室中心だった旅館から洋室のビジネスホテルへと転換し、上野の旅館街はビジネスホテル街へと大きく変貌しました。時代の流れ・ニーズの変化とともに上野の旅館は、さまざまな変遷を遂げてきましたが、霜鳥さんもお書きになっているように、それぞれの時代で上野の旅館に共通しているのは、“アットホームな雰囲気”を伝統としている点でしょう。和から洋へと宿泊の形式は変わっても、上野の旅館がその長い歴史の中で培い、育んできた“家庭的で、親しみやすい雰囲気”と“心に残るサービス”という“上野ならでは、のよさ”は、今も変わることなく受け継がれていると思います。その根っこの部分は変えずに、訪れるお客さんの変化やニーズに応じて、それに即した施設に移行してきたのが、上野といってもいいかもしれません。
山田:その意味では、上野駅と上野公園の存在は大きいですね。
渡辺:基本的に、そのおかけですよね。私の父は4代前の組合長でしたが、当時、問題になったのが、東北新幹線。
※新幹線問題を中心にした上野再開発について
大宮駅の次は東京駅で、上野駅に停車しないという話が出たので、これには大反対しました。古い文献を紐解いても、上野の街は上野駅と共に歩み、発展してきた経緯がある。もしその上野駅が新幹線の停車駅でなくなれば、上野は廃れてしまうと、みんなが危機感を抱きました。とにかく上野駅に新幹線を停車してもらおうと、上野の周辺地域が一丸となって運動を行いました。組合の青年部でも新幹線問題は最大のテーマで、3日間、街頭署名を行って、約20,000人分の署名を集めたのを伝え聞いております。10万人を目標に、上野ホテル旅館組合も含めて上野の街の皆さんが一致団結して、署名運動に取り組みました。新幹線が停車するか否かで、街にとって、訪れる人の流れはまったく違ってきますからね。
(つづく)
※出典:上野旅館組合 青年部のあゆみ(昭和51年)