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[第1回:長者町の歴史的歩み]
●上野地区町会連合会常任理事 長者町二丁目町会会長 鴨下 守さん ●聞き手 佐藤 輝光(松坂屋上野店)かつてあった“長者町”という古い町の名称を持つ町会が、今も上野御徒町近辺にあります。長者町二丁目町会の会長として地域のさまざまな活動を行っている鴨下守さんに、“長者町”の由来などについてお話を伺いました。
鴨下会長と
■“長者町”という町名の由来
佐藤:長者町というのは、とてもいい名前ですね。どういう由来があるのですか?
鴨下:私たちの町会は“長者町”という旧町名を使っていますが、今回、取材のお話をいただいて、改めて調べてみようと、役所に連絡して資料がないかどうか尋ねてみました。そうしたら、やはりここは古い町で、そのことを再認識しました。資料によると、もともと天正の頃(1573?1592年)に、朝日長者という豪戸の邸宅があったそうで、その宅地の中にできた町だったことから、“長者町”という町名がつけられたようです。その後、幕府の徒士組屋敷(※1)になりますが、1657年の明暦の大火で屋敷は焼けてしまい(※2)、さらにその後、元禄年間(1688?1704年)になると、能役者や茶坊主などが住む幕府からの拝領屋敷になったといいます。この頃から、このあたりが“長者町”と呼ばれるようになったみたいですね。
柔道発祥の地碑
柔道の総本山として講道館が有名ですが、明治15(1882)年に創始者の嘉納治五郎が最初の道場を開設したのが永昌寺で、発祥の地とされています。この永昌寺はもともと、永禄元年(1558年)に長者町に創設されたと言われていて、現在は、東上野五丁目に移っています。
※1/徒士とは、徒歩で従軍する下級武士のこと。
※2/明暦の大火は、明暦3年の1月18?19日にかけて起こった江戸の大火。多くの旗本屋敷や神社仏閣が焼け、江戸城の天守も焼けたとされる。
■長者町から新しい住所表記へ
佐藤:今の住所表記になったのは、いつ頃なのですか?
鴨下:“長者町一丁目・二丁目”という住所表記になった時期がいつの頃なのかは、わかりません。でも、今の住所表記になったのは、昭和39(1964)年の住居表記制度の実施からです。“長者町一丁目” は、“上野三丁目”に、二丁目の大部分は“上野三丁目”になって、高架線下の一部は“上野五丁目”に入りました。
旧町名地図
私たちのところは、“長者町二丁目町会”ですが、私は五代目の会長になります。初代の町会長がずっと誰だったのかわからなかったんです。ところが、三代目の会長のお嬢様にお話を伺ったら、松坂屋さんの別館のところに住んでいらっしゃった柳田さんという方が、初代会長だったということで、実は昨日、そのことがわかったのです(笑)。取材があるこのタイミングで、しかもすごく近くにいらした方だったので、びっくりしています。世の中、不思議ですね。(つづく)