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[第2回/上野の旅館業の変遷?その1]
●上野ホテル旅館組合 組合長/渡辺 定利さん ●聞き手/山田 諒典(松坂屋上野店)
上野の駅前周辺に旅館ができ始めたのは、上野?熊谷間の鉄道が営業を開始した明治期に遡ります。上野の旅館の歴史について、上野ホテル旅館組合の組合長・渡辺定利さんに伺いました。
渡辺定利組合長
■明治・大正期の上野の旅館
旅館調査表(昭和24年)※1
山田:このあたりでいちばん古くからある旅館というと、どちらになるのですか。
渡辺:井筒屋さんは今、「COFFEEリーム」ですし、古くからの旅館はほとんどなくなってしまいましたね。今うちは、「ホテルニューウエノ」ですが、もともとは料亭旅館「上野亭」です。開業年月は1934(昭和9年)6月19日と、1949(昭和24)年8月31日現在の旅館調査表(※1)に綴られていますので、わかる範囲では、このあたりでいちばんの古株かもしれません。
錦絵-明治期の上野駅※2
今回、取材の依頼をいただいて、上野の旅館に関する資料を見せてほしいといわれて、自分でも興味が湧いて調べてみたわけですが、正直、こんなにいろいろ資料が出てくるとは思わなかった。いろいろわかってきて、びっくりです(笑)。先程お見せした霜鳥貞治さんの「駅前旅館風雪百年」という記事によると、上野に旅館が建ち始めたのは、日本鉄道会社が上野?熊谷間の営業をスタートした1883(明治16)年頃。当時は上野駅の駅前を中心に「井筒屋」「ゑびす屋」といった旅館が数軒点在するだけでしたが、鉄道が高崎、前橋、宇都宮へと伸びていくに従って、旅館の数が増えていったようです。明治中頃から大正期にかけては、上野公園で勧業博覧会や大正博覧会、平和博覧会といった博覧会が次々と開催されたことから、上野一帯が賑わい、旅館もずいぶん増えて活気づいたとあります。
でも、1923(大正12)年9月1日に起こった関東大震災で、ほとんどの家屋が倒壊、火災が発生したことで壊滅的な打撃を受けた。上野駅も焼け落ちて、人々は火の手から逃れるために上野公園に逃げたそうです。一帯は焼け野原となり、その後、復興が進み、上野駅も建て替えられて、今の駅舎ができて、周辺にも活気が戻りました。しかし、それもつかの間、1929(昭和4)年に起きた世界恐慌の余波による昭和恐慌で、上野駅の利用客が減り、“東京の北の玄関口”とは思えないほどの寂しさだったと。当然、旅館への客足もめっきり減って閑散としていたそうです。
■上野駅前旅館、全盛期
山田:その後、上野に活気が戻るのは、いつ頃からなのでしょう。
渡辺:霜鳥さんの記事に「景気回復の兆しを見せ始めた昭和13年ころからは…」とあるので、その頃から駅前旅館は全盛期を迎えたのだと思います。いちばんの要因は当時、国鉄が観光目的の団体旅行を企画したこと。お伊勢さんや成田山、鎌倉や江ノ島などへ詣でる「神社・仏閣めぐり」が盛んになり、当時、一泊二食付き二円という宿泊料が受けて、上野駅周辺の旅館は団体客で賑わったそうで、「…駅前旅館の全盛時代として、今日でも語り草になっている画期的時期であった」とされています。戦時色が強くなる1940(昭和15)年頃の上野駅周辺の旅館件数については「…約百七十軒で、駅前は山城屋、名倉屋、群玉舎、字仁館、藤屋などの大旅館で占められていた」とあるので、この頃が上野界隈の旅館にとっては、活気のある時代だったのでしょう。
東京旅館下谷区組合員所在位置図※3
その後、戦火が激しくなると、再び客足は遠のき、上野の旅館も下降線をたどり始めます。戦争末期にかけては、再三行われた焼夷弾による東京への空襲でほとんどの旅館が焼失してしまい、上野は再び苦難の時期を迎えます。
山田:紆余曲折、いろいろあったのですね。
渡辺:こうして調べてみると、古い時代から歴史を刻んでいるというのは、時代を超えて、今と昔がつながっているのを感じます。先代がその時代に何をしたかを知ることは、これから先、何をしていくか、何をしなければならないか、を考える際のヒントになる。今後、上野がどういう形で展開していくにせよ、できる限りのことはやっていきたいという思いはありますね。
(つづく)
※1、3今回の取材で掘り起こされた、組合所蔵の資料。
※2 現在工事中の、JR上野駅公園口近くの工事現場の囲い壁面に描かれた錦絵。人々が足を止めている。