その二十二 戦後復興期には進駐軍向けダンスホールの営業も!
#松坂屋ヒストリア小話 その二十二
進駐軍向けの土産品売場やダンスホール等を新たな収入源として松坂屋は戦後の変動期を乗り切った。
1945年終戦直後は極端な生活物資の不足と悪性インフレが生活を脅かし、日本の人々は食うための生活に追われました。松坂屋も戦災にあった名古屋、銀座、静岡の3店舗を抱え苦しい復興の道を歩み始めましたが、売るべき商品もなく、急には販売再開が望めない情勢下で新たな営業分野を開拓しました。それは進駐軍向けの土産品売場、ビヤホール、ダンスホールなどでした。土産品売場は1945年9月に名古屋、上野、銀座の3店舗、同年10月には静岡店にも開設されました。1949年8月には名古屋店の7階に、進駐軍とその家族に輸出商品をドルで販売する「エキスポートバザー」も開設されましたが、これはGHQの許可のもと、日本製品の輸出不振を救済するために、1都市1店舗に限り設けられたものでした。進駐軍用のダンスホールは、名古屋店では「トロカデロ(麗都)」という名称で1945年10月に地下1階に開設され、翌年10月には7階にもオープンしています。銀座店も「オアシス オブ ギンザ」という名称で1945年11月に新館地下2階に開設しました。そして、これらはいずれも松坂屋の新たな収入源となり、厳しい情勢下業績向上に寄与しました。このように松坂屋は機敏な変化対応によって戦後の変動期を乗り切ってきたのです。
エキスポートバザーのポスター(昭和24年8月)
名古屋店7階ダンスホール(昭和21年)
名古屋店ホールのジャズバンド(昭和21年)