その四十八 常盤女学院は松坂屋の経営だった!
#松坂屋ヒストリア小話 その四十八
3,000人のマンモス卒業式!中部地区最大の服飾専門学校「常磐女学院」は松坂屋の経営だった。
昭和40年代~50年代に中部地区最大の服飾専門学校として名を馳せ、7万人を超える卒業生を輩出した「常磐女学院」は松坂屋の経営だった。明治40年(1907)3月、いとう呉服店は空前の繁栄のなか殺到する和服の注文に対応するため、専ら和裁技術を教え、注文品を仕上げる目的を持って「いとう呉服店和服裁縫所」を名古屋市中区長島町(現在の丸の内二丁目)に創設した。これが常磐女学院の起源となる。大正14年(1925)「松坂屋和服裁縫所」と改称するが、この裁縫所が学校教育の形態となったのは、昭和4年4月のことである。当時人間教育と技術教育は一体であるという高い理想に燃えていた松坂屋社長・第15代伊藤次郎左衛門祐民の発意によって、近代的な教育システムを盛り込んだ「常磐裁縫塾」に改組され、東区久屋町(現在の久屋大通の北端)に移転して元倉敷商業学校の校長飯田啓三を塾長に迎え開塾した。当初は和服科だけで発足し、昭和8年には洋裁科を、さらに料理、茶華道を選択科に加えた。教育方針として人格教育、情操教育に力を入れたので、その名声は高まった。太平洋戦争の激化に伴い、昭和18年には一時休校のやむなきに至ったが、昭和21年5月東区横代官町に「常磐女学院」として再開し、昭和30年代以降のファッションマーケットの隆盛に伴う洋裁学校ブームの到来に対応して新たな教科の開設・充実に努めた結果、急激な入学者の増加につながり、昭和43年度の愛知県体育館を会場とする卒業式には3,000名を越す卒業生が出席するマンモス式典となった。しかしながら、その後既製服の時代となって洋裁志向者が減少し、大学・短大への進学率上昇や競合する各種専門学校の増加など厳しい時代の流れのなかで学生数は年々減少の一途を辿ることとなった。そして平成19年には常磐女学院は閉鎖となるが、第15代祐民が理想をもって始めた「塾」の教育理念は現在も松坂屋の経営に脈々と受け継がれている。今でも、当時を知る年配の人は常磐女学院のことを「常磐塾」と呼ぶそうである。
常盤裁縫塾時代の通学風景
和裁授業風景(昭和13年)
常磐女学院建物外観(昭和42年)
洋裁授業風景(昭和42年)
昭和44年度卒業式
入学案内ポスター(昭和48年)